昨年夏の終わりに、91歳の母が緊急入院から、
大腿骨転子部骨折の手術と大腸憩室穿孔の手術および人工肛門造設術を受けて、
成功率は50%無い中、一命をとりとめた。
弟や従姉とも、もう駄目だねと、覚悟を決めていた。
「お袋が、おれが死んだら、姉ちゃんの言うとおりにしろって言われてる。」
弟の言葉に (;゚Д゚)ええ~~ と慌てた。
わたしは何も聞いていない!!!!
まったく、何でもわたしに丸投げだ。
何時とも知れない葬儀に備えたら、気持ちが楽だと判断し、決めた!
そんな中、決定の後押しをしてくれたのが、
島田 裕巳著‥‥‥「葬式消滅」
サブタイトルは、お墓も戒名もいらない
まだ新型コロナウイルス感染が世に広がる以前、
「葬式は、要らない」を出版されている。
初めての葬儀体験は、二十代半ばの頃、祖父が他界した時。
曹洞宗だったからか、かなり派手な袈裟をきた方丈さんと、若い僧侶が3人。
お経の間、若い僧侶が立ち上がって、楽器のようなものを鳴らす。
賑やか!その立ち居振る舞いが、滑稽に見えて、笑いをこらえていた。
葬儀って‥‥‥なんとも、面倒くさい儀式だと、不謹慎にも感心。
一家を省みなかった父の葬儀も、分相応とはかけ離れていた。
‥‥‥母の見栄だったと確信している‥‥‥
この本を読んで、葬式が曹洞宗から始まった事を知った。
死者の供養の為でも、残された遺族の為でもない。
禅の修行道場を維持するために、金銭を稼ぎ出す手立てとして始まったとある。
他の宗派も経営のために有効と判断して、一般化していく。
明治以降に、僧侶の妻帯が許されて、檀家は住職一家を養う必要が生じる。
布施や戒名料が高騰していく一因になった。
高度経済成長期という時代背景も加担している。
ならば、まさに時代が変化しているコロナ禍の今、
葬儀の在り方が変わるのは、自然だなと‥‥‥腑に落ちた。
ただ、コロナ禍以前の葬儀に参列し、
名前しか知らなかった親戚縁者の顔合わせに感動したことも事実。