まもなく帰省して、卒寿の母をお手伝いが始まる。
月曜日は、デイサービスのお迎えが来る。
火曜日から土曜日は、配食サービス配食の度に
「安否確認サービス」のメールが届いていた。
わたしは日曜日だけ電話連絡をしようと思っていたが‥‥‥‥
ベッドから起き上がり、受話器を取る動作を考えたら、逆に不安になった。
デイサービスの出欠確認は、決まった日の決まった時間にされるから、母にも気持ちの準備があった。
わたしが電話するとは言ってこなかったことを考えて、やめた。
「動きが悪いのに、わざわざ電話かけてくるな!」と言われそうだったし‥‥‥
気が付いたら、母を「毒母」と受け止めていた。
7人兄弟姉妹の3番目。母以外は、他界。
7人居たら、助け合いもあるだろうが‥‥‥‥比較する‥‥‥‥
「一番貧乏くじだったて‥‥‥」が口癖になっていた母。
ずっとではなかった!
末っ子は就学前に病気で他界。実際には6人兄弟姉妹で成長。
男女半々。揃って映った写真の母が、一番華やかだった。
わたしは、幼いころから、身に着けるものは母の手作り。
学校から帰ると、おやつを食べながら母が洋裁をする傍らで、おしゃべりするのが好きだった。よく笑っていた。
初めて親戚の海の家でアルバイトする際に
「何をしたらいいか、よく聞いて、終わったら ”次は何をしたらいいか” ちゃんと聞いて、動いていなきゃダメだで!」と。
気働きや気配りを何度も言われた。
究めつけは‥‥‥‥受験に失敗し、「わたしには、もう春がこない。」
と泣きじゃくったとき、
「大丈夫だ。誰にでも春は来るで。」と。
この言葉が、わたしを動かした。
‥‥‥‥明るく、強い母‥‥‥(。´・ω・)ん?
いつから?
アフリカ在住の際、夫が体調不良で一人で一時帰国した際、
アフリカに残されたわたしは、不安で母へ電話。
「どうしょう?何かあったら‥‥‥‥」
「二人の子の母親が、なにめそめそしてんだて!しっかりしねきゃダメだろが!」
叱咤激励!
二人目の出産で帰国した際、”悪阻” の辛さを理解したのも母だった。
出産で入院中、娘を安心して託したのも母だから。
産後もわたしと娘と息子を、大切にサポート。
(。´・ω・)ん? ホントに、いつから?
父の葬儀もこなし、一人で‥‥‥と、16年ほど前の中越地震⁈
3年後の中越沖地震⁈
それまでは、70代半ばで「卓球」を楽しんでいた!
老いと共に、身体の自由が減り、地震が追い打ちをかけるように不安を煽った。
生活習慣病を抱えるようになって、自分で食事の管理はしていたものの‥‥‥
脊柱管狭窄症や膝関節変形症で、動きが制限されて‥‥‥‥
心も、老化する?
愚痴や悪口、恨み節が増えた。
「おれの人生、何だったんだか。」と。
頑張ったからと言って、報われるわけじゃない事を知っているはずなのに!
先が見えたら、「こんなはずじゃねかった。」と。
そうか‥‥‥‥
書き連ねてみたら、感謝も込めて優しくしようと思えた。